“朝鮮人から姓を奪い、日本名を強制する”
 創氏改名と聞くと、こう“理解”している人も少なくないのではないか。 朝日新聞でもそのような論調が見られる。

新聞と戦争 植民地朝鮮で 〉( 2007年5月1日付と題された記事では次のような記述がある。
「植民地時代、日本は 『創氏改名』 として、日本風の名前をつけるように朝鮮人に強いた」
 だが、創氏改名が行なわれた当時、朝鮮半島で発行された他ならぬ朝日新聞を丹念に読んでいくと決して日本名を強制していたわけではない ことが浮かび上がってくる。

 “圧政”の象徴になっている 「創氏改名」 に焦点を当てて 「朝日新聞・朝鮮版」 を精査した。
 当時、朝日新聞の 「朝鮮版」 は 「大阪朝日新聞」 の地方版として、西鮮版、北鮮版、中鮮版、南鮮版などが発行されていた。
 創氏改名の受付開始直後、どのように報じていたのか。
 世紀の歓喜 創氏 〉( 『大阪朝日・北鮮版』 1940年2月14日付 )
 金さんが一番乗り京城に相次ぐ改姓者 〉( 『大阪朝日・中鮮版』 1940年2月13日付 )
 相次ぐ改姓名乗り 平壌府庁へ殺到す 〉( 『大阪朝日・西鮮版』 1040年2月13日付 )
 などの見出しが紙面に躍っているが、その一方で、
 届出が少なく係も手持無沙汰光州府民の改姓 〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年2月14日付 )
 といった記事も見られる。 地域によってかなりばらつきがあったようだ。




 そもそも 創氏は1939年11月7日、昭和14年制令19号で定められ、一方、改名は制令20号で定められた。
 父系の血縁を重視する朝鮮では結婚しても夫婦別姓であるが、この 「姓」 とは別に 「氏」 を新たに設け、欧米や日本と同様に夫婦でファミリーネームを統一するよう定めたのである。 しかし、それまでの姓を削除したわけではなく、戸籍には姓も、出身地を表わす 「本貫」 とともに記載された。
 創氏の受付は1940年2月11日から8月10日まで行なわれ、期間中に届け出をしなかった者は自動的にそれまで の家長の姓が氏となった。 これが 「法定創氏」 である。
 一方で新しい氏を届け出る 「設定創氏」 がある。 設定創氏では内地風の氏にする場合は自由に決められたが、朝鮮風の氏にする場合は自分の姓のみが認められた。 最終的に設定創氏は約8割、法定創氏が約2割であった。
 ちなみに 「改名」 はそれまでの戸籍法上の手続きをあらためて明文化したに過ぎず、任意であり、期限も設けられなかった。
 このように、決して日本名を強制したわけではないのである。 そして創氏の受付開始から約1ヶ月後には、強制ではないことをあらためて注意する記事が朝日新聞に登場する。
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  創氏改名は強制ではない、と報じている。
( 『大阪朝日・中鮮版』 1940年3月6日付 )
氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督から注意を促す
 ( 略 )
 中には主旨を誤解している向きも相当あり、従ってその方法などでも氏を設けなければいけないんだという思想のもと行はれ勝ちなため新旧両時代有識無識の両階級間に無用の小摩擦や意見の相違を来すやうなこともあるので南総督は5日の局長会議で…
 ( 略 )
 左のやうに関係各方面に注意した。
 氏創設のことに関してややもすれば誤解してゐる向きもあるやうに聞くが、これは絶対に強制ではなく、一視同仁の大御心から朝鮮同胞に内地人同様の氏創設の道が開かれたのであって、内鮮一体の具現化であり、この点一般にも誤解なきやう主旨の徹底をはかつて欲しい
〉 ( 『大阪朝日・中鮮版』 1940年3月6日付 )


 「強制ではない」 というのは建前であり、実際には “自主的に” 創氏しなければさまざまな不利益を被ったのではないかという指摘もあろう。 しかし、さらに新聞報道を追っていくとその指摘にも疑問符がつく。




 創氏の受付終了後も朝鮮版・朝日の記事中に政治家、軍人、民間人を問わず、朝鮮名が数多く見られる。
 現在の国民体育大会の源流ともいえる 「明治神宮国民体育大会」 の氷上競技・競速( スピードスケート )3000mで李孝昌選手が優勝した際には、
李君殊勲の第一位気を吐く半島氷上軍 〉 ( 『大阪朝日・北鮮版』 1941年2月8日付 )
と3段見出しで活躍を伝えている。
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   当時のスポーツ記事には朝鮮名が数多く見られる。
( 『大阪朝日・北鮮版』 1941年2月8日付 )
 ボクシングの試合結果を報じる記事では、
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京城の拳闘試合
( 略 )
【6回戦】
白連吉 判定 丁鎮龍
金剛いさむ 判定 金光善
【10回戦】
朴龍振 判定 金振用
( 『大阪朝日・中鮮版』 1941年6月7日付 )
 といった具合だ。
 また政治家も同様だ。
 『大阪朝日・中鮮版』 1941年1月23日付には忠清南道・大田府議会議員の当選者が紹介されているが、朝鮮名の議員の名が見れる。
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   忠清南道・大田府議会議員の当選者が紹介されているが、右下に李輔■( 王+行 )という朝鮮名の議員の名がある。
( 『大阪朝日・中鮮版』 1941年1月23日付 )
 また朝鮮半島の全13道の総選挙が1941年5月10日に行なわれ、翌日に当選者が各紙に掲載された。
道議選挙の幕閉づ 一喜一憂・秘函開かる 〉( 『大阪朝日・北鮮版』 1941年5月11日付 )
 この記事を見ると、京畿道広州郡( 定員1名 )に兪仁穆、京畿道抱川郡( 同 )に金胃漢、全南道光山郡( 同 )に金在珪 などの朝鮮名がある。
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   創氏の受付終了後の1941年5月11日付けの『 大阪朝日・北鮮版』 が報じた選挙当選者には多数の朝鮮名がある。
( 『大阪朝日・北鮮版』 1941年5月11日付 )
 他にも注目すべきは、
 誉の功績者 〉 ( 『大阪朝日・西鮮版』 1941年2月13日付 )
 という記事だ。 これは朝鮮総督が表彰した 「農山漁村指導者」 「社会教育功績者」 などを一覧で紹介しており、言ってみれば日本に“協力的だった”人たちだ。 しかしここでも朝鮮名の 「李」 や 「金」 が散見される。 さらには同じ記事中で 「教化に大功労」 と小見出し付きで公立小学校校長 「洪殷吉氏」 が紹介されている。
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   日本に“協力的”で朝鮮総督府から表彰された人にも朝鮮名が確認できる
( 『大阪朝日・西鮮版』 1941年2月13日付 )




 盧武鉉政権時の2005年に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が成立し、植民地支配に協力した親日派やその子孫が、それによって入手した土地・財産を没収されるなどパージが実行されたことは既知の通りである。
 朝鮮人で当時の日本の協力者となると、その最たるものは総督府の官吏であり、日本名での創氏が強制であったのならば、彼らは率先して行なったはずである。
 再び朝日新聞を見てみよう。
 総督府辞令 〉( 『大阪朝日・北鮮版』 1941年4月3日付 )
 この記事は見出しの通り、辞令を一覧にしたものだが、その中に 「本府判事 李忠螢」 や 「平壌地方法院検事 全一龍」 など朝鮮名が見られるのだ。
 そしてそれは朝鮮半島統治の中枢でも同様である。
 中枢院副議長 李家軫鎬氏を任命 欠員中の中枢院副議長の後任補充にともなふ異動は12日拓務省から左の如く発表された
 ( 略 )
 朝鮮総督府中枢院副議長被仰付
      同 朴忠重陽
      同 韓相龍
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1941年5月13日付 )

 朝鮮人の姓はほとんどが漢字1文字である。 設定創氏の場合、もともとの姓に1字加えて漢字2文字にしたケースが多い。 見出しにある 「李家」 は 「李」 が創氏したものだろう。 しかし記事中には韓相龍という完全な朝鮮名も確認出来る。
 日本が敗戦した後、フィリピン捕虜収容所長時代の責任を問われてB級戦犯として処刑された洪思翊中将は、朝鮮名であり続けたことで有名だが、彼がレアケースというわけではないのである。
 来年は日韓併合から100周年を迎える。 すでに韓国の 「東北アジア歴史財団」 が“国権侵略”をテーマに学術会議を開く準備をしている。 韓国にとって節目に当たる年にナショナリズムが過熱するであろうことは想像に難くない。 デリケートな時期だからこそ、日本が朝鮮半島でどのような統治を行なってきたのか、あらためて過去の資料を精査する必要があるのではないか。







 日本は戦時中に、労働力確保のため、多くの朝鮮人を内地へ強制連行し、それが今の在日韓国・朝鮮人の始まりである  いまだにそう認識している日本人は多いのではないか。 しかし実際は、強制連行された人はほとんどいないことが戦後の外務省の調査で明らかにされている。
 なぜこのような事実と異なる認識が広まったのか。 それは 大マスコミの報道が偏向していたことが大きな原因のひとつ だろう。 朝日新聞は戦前、戦後とどう報じたのか。

     *

 朝日新聞は、1959年12月25日の朝刊で 「『ばく進する』 北朝鮮よくはたらく人々」 との礼讃記事を掲載 したのを皮切りに、朝鮮半島に関する報道から徐々に客観性が失われていった。
 現在、日本国内に在留している朝鮮半島出身者を、戦前・戦中に 強制連行 された 「被害者」 であると位置づけ、 「税の減免などの在日特権」 を享受できる環境を創り出したのは、朝日新聞に代表される親北朝鮮メディアの報道によるところが大きい と思われる。
 最近の朝日新聞は、 「朝鮮人強制連行」 説を直接主張しなくなってはいるか、今でも間接的に“多数の朝鮮人を強制連行した”と主張する記事を掲載 している。
 代表的なものに、2006年5月17日朝刊に掲載された 「拉致家族共感の輪を広げたい」 と題した社説がある。

 韓国民にとってはそれ自体が身近な悲劇であり、拉致の深刻さは相対化されがちなのだ。 拉致に焦点を当てる日本に対し、 「日本だって、植民地時代に多くの朝鮮人を連れ去ったではないか」 という目で見る韓国人も少なくない

 このように 韓国人に“代弁”させる形 で読者をミスリード する。
 だが、冒頭の記事が掲載される以前、朝日新聞がまだ 「朝鮮半島問題」 を客観的に報道していた時代には、在日韓国・朝鮮人のほとんどが、自由意思で来たと報道していた

 大半、自由意思で居住外務省、在日朝鮮人で発表戦時徴用は245人
 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで 「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」 との趣旨の中傷を行なっているのに対し、外務省はこのほど 「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」 について発表した。 ( 略 )現在、登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である
〉( 『朝日新聞』 1959年7月13日付 )

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  在日朝鮮人のうち徴用されて来た者が245人しかいないと報じる記事。
( 『朝日新聞』 1959年7月13日付 )
 国民徴用令は内地で1939年7月に施行され、朝鮮半島への適用は1944年9月から翌年3月までの7ヵ月間で、内地へ強制連行された人数は、同じ制度で徴用された日本人よりはるかに少なかった。 終戦から14年後に国内に留まっていたのは、わずか245人だったのである。
 では、自由意思で在留している韓国・朝鮮人は、如何なる理由で来日したのか。




 まず 「朝日新聞・朝鮮版」 を見て驚くのは、密航者や密航ブローカーが逮捕された記事の多いことだ。

 密航青年ご難 釜山でまんまとしてやらる
 内地へ渡航せんとする家出青年を誘惑し密航手数料を詐取した上他人の発動機船の船倉に押し込めて逃走した大胆 な密航詐欺犯人が2日釜山水上署に検挙された
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1938年11月3日付 )


 密航朝鮮人送還
 26日朝釜山人港の釜博連絡船珠丸で佐賀県唐津から密航朝鮮人180名の大量送還があつたが、彼ら180名の朝鮮人は10月、11月にわたり釜山松島海岸から密航をなしたものである
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1938年12月28日付 )

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  密航を報じる記事は多数見られる。
( 上:『 大阪朝日・南鮮版』 1938年11月3日付 )
( 下:『 大阪朝日・南鮮版』 1938年12月28日付 )
 この記事から、取り締まりを逃れるために港以外からも密航していたことがわかる。 当時の状況は、警察と密航者の 「いたちごっこ」 だった。

 密航団捕物陣 釜山で一網打尽
 22日午前2時ごろ釜山郊外沙下面多太浦海岸からまさに出航せんとしてゐる密航団26名があるのを探知した釜山署では闇の岸壁を這ひ降り大格闘を演じて一網打尽に逮捕した
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年1月26日付 )


 この頃すでに日中戦争が勃発して1年が過ぎており、そんな状況下でも日本への密航者が後を絶たなかったのだ。

 密航朝鮮人送還
 30日朝釜山入港の関釜連絡船で福岡県から密航朝鮮人46名が送還されて来たが、厳重な警戒を潜って内地へ密航をなし送還されて来たもので新年に入ってから僅か1ヶ月間に300名に上つてゐる
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年1月31日付 )


 密航朝鮮人を一網打尽
 11日午前3時20分ごろ釜山郊外沙下面甘川里海岸から120名の朝鮮人が運搬船に乗って密航を企てゝゐるのを発見、釜山警察署高等係員が現場に急行し被募集者に化けて近付き密航ブローカー釜山府牧島宗子君( 48年 )ほか8名、被募集者120名を一網打尽に逮捕したが、密航ブローカーは被募集者から5円乃至10円の手数料をとつてゐたもので128名を一度に取押へたことは珍しいことである
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年2月2日付 )

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  日中戦争が始まってからも、日本への密航者は後を絶たなかった。
( 上:『 大阪朝日・南鮮版』 1939年1月26日付 )
( 中:『 大阪朝日・南鮮版』 1938年1月31日付 )
( 下:『 大阪朝日・南鮮版』 1938年2月2日付 )
 現代の蛇頭などの中国人密航ブローカーを彷彿させる記事だ。 密航ブローカーが荒稼ぎすると、それを巻き上げる輩も出てきた。

 密航ブローカーを脅迫 一味6名検挙
 ( 略 )端なくも密航ブローカーを脅迫、金品を強奪してゐた怪事件が判明した、犯人は住所不定自称龍白子( 48年 )ほか5名で、密航ブローカーらを継続的に脅迫し、傷害を加へたうへ金品を強奪してゐた( 略 )
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年2月15日付 )

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  日中戦争が始まってからも、日本への密航者は後を絶たなかった。
( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年2月15日付 )
 暴力団まがいの輩に狙われるほど繁盛していた密航ビジネス。 いかに密航者が多かったかがわかるだろう。




 日本を目指す朝鮮人があまりに多い状況を受け、取り締まりを緩和した記事なある。

 諭旨の渡航者 1万9千余人
 半島人の内地渡航に対する取締は本春以来著るしく緩和されて来たが、漫然渡航者に対しては依然として厳重取締を実施してゐる
 本年1月以降5月末までに内地渡航証明下付を出願した半島人は全鮮で4万485人、漫然渡航せんとして釜山桟橋の監視所で論旨された者1万9千110人に達してゐる、このほか密航ブローカーの魔手にかゝり南鮮沿岸から密航せんとして発見された者約2千名に達してゐる
〉( 『大阪朝日・北鮮版』 1939年6月22日付 )

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  日本への渡航希望者が多いため、取り締まりが緩和されたと報じている。
( 『大阪朝日・北鮮版』 1939年6月22日付 )
 何ら理由やあてがないまま渡航する 「漫然渡航」 を阻止していたという記事だが、それくらい内地は魅力的に見え、行けばなんとかなる、という思いを多くの朝鮮人が抱いていたのだろう。 その証拠に、内地へ行くために必要な渡航証明絡みの犯罪も後を絶たなかった。 同日の 「南鮮版」 に掲載されている。

 渡航斡旋を□実に詐取
 慶南道昌原郡東面月琴里生れ李一同( 50年 )は( 略 )内地渡航証がなくて困つてゐるものに対し 「自分の親友が釜山水上署にゐるから頼めばすぐ渡航できる」 と称し一人あて50円づつ合計3百円を詐取、6人を連れて来釜し宿屋に宿泊させてそのまゝ逃走したが、19日府内に潜伏中を釜山署員が逮捕した
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年6月22日付 )


 渡航証明書を偽造したケースもあった。

 渡航証明書を偽造し 不敵、巨利を博す
 悪運つきて遂に捕へらる
 本籍釜山府■州町74番地当時尼崎市外道尉町1丁目9番地洋服商外交員和田友吉こと金有福( 44年 )は本年7月( 略 )印刷機を借受け大阪岸和田警察署長などの渡航証明書を偽造売却し、巨利を博してゐたところを北釜山警察署で探知し19日潜伏中を逮捕した
 一枚20円乃至30円で売却してゐたものであるが証拠品は全部同署に押収した
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1939年11月21日付 )


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  当局に口利きができると偽って金を巻き上げたり、渡航証明書を偽造して売りさばくなど、渡航絡みの犯罪も多発した。
( 上:『 大阪朝日・南鮮版』 1939年6月22日付 )
( 下:『 大阪朝日・南鮮版』 1939年11月21日付 )
 希望者が多いため、渡航緩和政策は翌年度も実施された。

 朝鮮人労働者の内地渡航漸次緩和
 林総督府社会課長談
 ( 略 )今までの内地行労働者は炭鉱方面であつたが、今後は工場、会社方面に送り出したいと思つてゐる( 略 )
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年4月5日付 )
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  引き続き渡航緩和政策が実施されたことが分かる。
( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年4月5日付 )




 だが、緩和のペースをはるかに上回る渡航希望があったようだ。 そのため、以降も密航の記事は頻繁に登場する。

 密航にまた新手 内地行労働者団体に見せかけ出帆直前に捕はる 〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年4月23日付 )
 密航ブローカー 〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1941年4月12日付 )

 といった具合だ。 なぜ朝鮮人は内地に行きたがったのか。 次の2つの記事を読むと、その理由が見えてくる。

 朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備 まるで旅館住ひ同様
 福岡県遠賀郡水巻町の日産鉱業所では石炭増産の一方策として多数の朝鮮人鉱夫を採用し、彼らのために特別の社宅、アパートなどを新築して優遇、殊に南鮮早害地からの純朴な出稼者たちのために建設された第一、第二尚慶寮の如きは入寮者一同まるで旅先の旅館にでも泊つてゐる気持らしく、その行届いた諸設備にすつかり感激してゐる( 略 )
〉( 『大阪朝日・中鮮版』 1940年4月21日付 )

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  内地の高収入、好待遇に惹かれ渡航希望者が絶えなかった。
( 『大阪朝日・中鮮版』 1940年4月21日付 )
 朝鮮人鉱夫の物凄い稼高 遠賀鉱業所で推賞の的
 ( 略 )この400人が3、4両月に郷里へ送金した総額は実に1万7千円、本月末までには優に2万5千円を突破する見込み( 略 )
〉( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年5月28日付 )

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  朝鮮人鉱夫たちはなかなかの高給取りだった。
( 『大阪朝日・南鮮版』 1940年5月28日付 )
 当時、日本人の大卒の初任給が約100~150円というから、1人あたり月に20円以上送金できたという朝鮮人鉱夫たちは、なかなかの高給取りだったことがわかる。
 今も昔も、労働者たちは職や高い生活水準を求めて国境を越えようとするのだ。
 前述の通り、戦後日本に在留した朝鮮人の多くは、密航者を含め自由意思で来日していたことを再確認して日韓の未来を考える必要があるのではなかろうか。



( 2010.04.22 )


 日本人が4人も大連と瀋陽で処刑された。
 毒飯子で支那人を1人吊るす。 なんで日本に義理立てして我が同胞を吊るすのかと彼らは騒ぐ。
 黙らせるには 「日本人4人を吊るした」 がちょうど相場と胡錦濤は考えたのだろう。 人の命を数量でしか見ない支那人の残忍さがよく出ている。
 北京が命の朝日新聞はこの数式をどう報ずるか。 その答が4月3日付けの 「中国・麻薬犯罪に厳格」 という大型記事だった。
 媚びてもう何年の古谷浩一特派員はまず十九世紀の阿片戦争を持ち出して、阿片禍を撒き散らされ、拒絶したら武力で香港まで取られた。 あの屈辱の歴史があるから 「麻薬犯罪にはどうしても厳しくなる」 と司法関係者に語らせる。
 尤もらしいが、英国が持ち込んだ阿片に喜んで飛び付いたのは漢族 だった。 彼らは阿片窟をつくって中毒患者を増やしていった。
 それで大儲けした英国をフランスが羨み、ベトナムを植民地にすると阿片公社をつくって阿片吸引を奨励した。 しかしベトナム人は拒絶 して中毒患者はさほど多く生まれなかった。
 漢族にそんなモラルはない 中毒患者は増えに増え、憂えた満洲族の清朝が阿片をやめさせようとして英国と衝突したのが阿片戦争 だ。
 しかしこのとき漢族は滅満興漢を旗印にして英国についた 戦いのあと、清朝は造反漢族を捕まえ、その顔に裏切り者の印を焼き鏝で押した。
 造反漢族は地下にもぐり、あるいは国外に逃げた。 これが後に国際犯罪組織の紅幇や青幇になる。
 青幇の元締めの杜月笙は滅満興漢を掲げつつ、裏でヘロインの精製を手掛けた。 彼は無水酢酸やエーテルを使う複雑な精製方法を単純化するのに成功して格安ヘロインを生みだした。
 いま世界のヘロイン市場を席巻するチヤイナホワイトがそれだ。
 だから 阿片問題で 北京政府が被害者顔して発言 をするのはホントはちゃんちゃらおかしい。 媚びる古谷はそれを承知で支那人=被害者論を書いたわけだ。
 記事の後段では薬物犯罪を死刑としているのは 「中国のほかマレーシアやシンガポールなど3ヵ国ある」 と書くが、これもすこぶるいかがわしい。
 前述のベトナムの阿片公社はフランス人に仕えた華僑が仕切り、ベトナム人を阿片漬けにしようとした
 ベトナムは南北統一後にやっと売人華僑を追放した。 世にボートピープルと呼ばれる現象だ。 同時に、華僑を意識して麻薬犯罪を死刑とする法律を作った
 マレーシアは英領時代に阿片が広まったが、それも英国人の下僕となった華僑がマレー人労働者に売りつけたから だ。
 元駐日大使のリー・クンチョイは 「一日の仕事を終えたマレー人たちが夕陽を背に阿片をくゆらす」 子供時代の光景を遣い目で語ってくれたことがあった。
 マレーの華僑は阿片で稼いだ金で農園や錫鉱山を買って長者になった。 リーの親爺もその一人だった。

 マレーシアは戦後マラヤ連邦として独立するが、マハティールが登場して 「阿片売人と一緒に国づくりはできない」 と華僑絶縁を宣言し、売人たちは南の島に追放された。 それが今日のシンガポールになる。
 この島の初代皇帝リー・クワンユーは麻薬売人の島というイメージを消すために公用語を英語に、国歌をマレー語にし、 「シンガポーリアン」 と名乗って華僑という素性を隠し、 「麻薬は死刑」 にした。 善良な隣人を装うポーズだ。
 北京政府も同じ。 今は阿片の集散地ラオスに拠点を築いて世界にチャイナホワイトを卸している。 「スタンド・バイ・ミー」 のリバー・フェニックスがそれでショック死したのはほんの一昔前のことだ。
 「支那と麻薬」 の関係は 「水戸と納豆」 くらいの密接さ にある。 それをひた隠すのに北京はリー・クワンユー方式を取り、 「麻薬犯罪は死刑」 にした。
 そんな見え透いたポーズをさも真実そうに綴る。 それでもあなたは朝日新聞を読みますか



( 2010.09.11 )

  
    


 笑えばいいのか、笑ってはいけないのか。 そんな複雑な気持ちにさせる 朝日新聞の大失態 である。
 手元に 『朝日新聞 会社案内2010』 という文書がある。 昨年の定期採用で志願する学生に配られた資料である。 その5ページの記述は、当の朝日社員たちこそ目を背けたくなるだろう。
 「特報 調査報道・スクープ」 というカテゴリーで、その“調査報道・スクープ”の実例として取り上げられたのが、先に無罪判決を受けた厚労省元局長、村木厚子氏の“郵便不正事件”を扱った記事なのである。
  「郵便制度の不正利用の実態を特報」 と題した文章では、一連の事件は朝日新聞が 《 取材を重ね( 中略 )調査報道で明らかにしました 》 と紹介される。 さらに、《 報道を受けて、大阪地検特捜部も2009年2月、強制捜査に乗り出しました 》 《 厚労省の職員と局長も( 中略 )逮捕しました 》 とし、この“事件”を明らかにしたのが朝日の 「検察担当記者たち」 だと胸を張っているのである。
 手元にもう一つ、文書がある。 村木氏の無罪判決が出た翌日、9月11日の朝日新聞紙面である。
 あれだけ 「うちのスクープで検察が動いた」 と自慢していたのに、社説では、《 特捜検察による免罪だ 》 と手厳しく検察を批判、社会面では 《 「最強」 特捜筋書き崩壊 》 《 検察の誇り失墜 》 と、すべて検察に責任を押し付け、トドメは 虚構が奪った454日 》 と、村木氏の長期勾留を特大見出しで嘆いてみせた。 虚報が奪った」 の間違いだろう。
 同日の紙面では、当時の報道の検証記事も掲載したが、《 関与否定発言を重視 》 《 「対等に」 弁護人取材 》 と中立報道であったことを強調し、件の会社案内とは180度違う姿勢だった。

  もともとリークに基づいて書いているのに、 「調査報道」 とし、今度は 「検察が悪い」 と逃げるのは潔い態度ではあるまい
 松本サリン事件で犯人扱いされた河野義行氏は最近ネットで 「小沢一郎の『 政治とカネ』 報道をどう思うか」 と問うインタビューに応じて、こう語った。
 「いったん疑われたら、メディアは、“やってないというなら、お前がそれを証明しろ”とくるんです。 しかし、やっていないことは証明できません」
 



※ 障害者団体向け
割引郵便制度悪用事件  
障害者団体とされる 「凛の会」 ( 白山会に改称 )や 「健康フォーラム」 が、2006年~2008年ころ、大手家電量販会社、紳士服販売店、健康食品通販会社などのダイレクトメールを障害者団体の発行物と装い、 「低料第三種郵便」 として低価格で違法に発送して、通常の第三種郵便物の料金との差額を数十億円単位で不正に免れたとされる郵便法違反事件である。
大阪地検特捜部が公表した捜査結果では、障害者団体6団体の定期刊行物を装って、11社の広告主のダイレクトメール約3180万通が違法に発行され、正規の料金との差額は約37億5000万円を免れたとされている。
低料第三種郵便物として発送するために必要な障害者団体の証明に、厚生労働省発行の虚偽の証明書が使用されており、虚偽公文書作成罪および同行使罪も問題となっているが、証明書の作成権限のあった村木厚子元局長( 当時課長 )の指示については、裁判において関係者の多くが否認しており、争点となった。元局長の一審判決では、指示は認められないとして無罪判決がなされている。




( 2013.08.15 )

  


 安倍首相の靖国参拝について大きな問題は安倍首相を取り囲む人たちです。 例えば元ベテラン外交官らは首相に忠告します。 安倍政権の課題は日米同盟の強化であり、そのためには防衛費の顕著な増額や集団的自衛権の行使に踏み込むことが重要ではあるが、靖国参拝などの歴史問題は国際問題を引き起こすためにしてはならない、慰安婦についても憲法改正についても触れないほうがよいと首相に “アドバイス” しています。

 さらに首相の足を引っ張るのが国内メディアです。 4月21日、首相が春の例大祭で靖国神社に真榊を奉納し、麻生太郎副総理ら安倍内閣の閣僚3人と超党派の国会議員168人が参拝すると、中韓両国のみならず、日本の一部メディアが活発な批判を展開しました。

 歴史問題、とりわけ慰安婦について国益を損ねる報道を繰り返してきたのは、他ならぬ朝日新聞ではないでしょうか。 朝日の社説子も、論説委員諸氏も記者の方々も、よくよく胸に手を当てて省みてほしいと思います。

 たとえば今年5月、読売新聞は複数回、慰安婦報道における朝日新聞の責任に言及しました。 そのうちのひとつが5月14日付朝刊です。 「従軍慰安婦問題」 と題した用語解説記事のなかで、朝日新聞の誤報を名指しで指摘しました。
〈 1992年1月に朝日新聞が 『日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していた』 と報じたことが発端となり、日韓間の外交問題に発展した。 記事中には 『主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した』 などと、戦時勤労動員制度の 『女子挺身隊』 を “慰安婦狩り” と誤って報じた部分もあり、強制連行の有無が最大の争点となった 〉
 しかし、朝日新聞は現在もなお誤報を訂正していません。 それどころか、誤った認識を持つ韓国の側に立ち、日本政府の対応を批判し続けているのです。

 靖国参拝についても、中国・韓国の反発を買うと言って批判しますが、報道機関であるならば、そもそも中国や韓国が靖国参拝に口をはさむ正当性がどこにあるのかをきちんと分析し、報じるべきです。 そして靖国参拝が摩擦の原因となると言うのであれば、中国・韓国による歴史捏造をこそ正し、摩擦の原因を取り除くための知的努力をすべきです。

 朝日に限らず日本のメディアは、 「閣僚が何人参拝した」 などと報じます。 靖国参拝が悪いことでもあるかのような報じ方です。 そうした奇妙で、浅薄で、明らかに間違った報道をするメディアに対しても、私たち国民は批判の声を挙げたいものです。





( 2014.11.09 )








 昭和20( 1945 )年8月14日、降伏の前日、朝日新聞は 「敵の非道を撃つ」 と題して、次のような社説を掲載している。
 すでに幾多の同胞は戦災者となっても、その闘魂は微動だにせず、いかに敵が焦慮の新戦術を実施しようとも、一億の信念の凝り固まった火の玉を消すことはできない。
 敵の謀略が激しければ激しいほど、その報復の大きいことを知るべきのみである。
 「焦慮の新戦術」 とは広島、長崎に落とされた原子爆弾のことである。 どう 「報復」 するかというと、原子爆弾に対しては 「わが当局が早急にこの対策をて、その被害を最小限に止めるであろうことを熱望する」 と当局に下駄を預け、 「われらはわれらに与えられた至上命令である航空機増産、食糧増産その他の刻下の急務に邁進まいしんすれば足る」 と言う。

 軍部の報道統制があったとは言え、ここまで積極的に国民を徹底抗戦に向けて扇動する社説を書く必要があったのか。 空疎な内容を美辞麗句で訴えている所は、戦後のソ連、中共賛美や、反日キャンペーンと同じである。 朝日の、報道機関というよりプロパガンダ機関としての本質が見てとれる社説である。

 朝日は大東亜戦争の期間を通じて、徹底したプロパガンダで国民を扇動してきた。 その実態を見てみよう。




 大東亜戦争は昭和16( 1941 )年12月8日のハワイ真珠湾攻撃で幕を開けた。 朝日は9日夕刊から 「帝国・米英に宣戦を布告す 西太平洋に戦闘開始 布哇ハワイ艦隊航空兵力を通爆」 と報じ始めた。

 その後、真珠湾攻撃の詳細が伝わるにつれて、次々と興奮気味の記事を掲載していく。 「米海軍に致命的大鉄槌 戦艦6隻を轟沈大破す」 「我奇襲作戦の大戦果確認」 「白亜館ホワイトハウス当局も甚しく驚愕」 等々。

 19日には 「米太平洋艦隊は全滅せり」 の一面大見出しのもとに、 「全主力艦の半分壊滅 米の野望今や全く絶望」 の小見出しを掲げ、次のように報じた。
 太平洋艦隊は全滅させられた! …… 現保有18隻の主力艦のうち9隻を一挙にほふられるにおよんで …… 一朝にして第二流、第三流の海軍国に堕してしまった。

 彼の( 米国の )頼みとするはもはや大西洋艦隊に属する戦艦を中心とする9隻の主力艦に過ぎない …… われらの太平洋制覇はまさに成らんとす。 我が海軍の栄誉にはただ感激と感謝をおくるのみである。
 開戦劈頭へきとうの大戦果はその通りだが、我が国の戦艦10隻に対して、なお9隻を擁する米国を 「第二流、第三流の海軍国」 と呼ぶのは冷静ではない。 また我が国はいつから 「太平洋制覇」 などとの野望を持ったのか。

 朝日が国民に対して事実を正確に伝えようとするなら、米太平洋艦隊の空母群は健在であること、ルーズベルト政権が真珠湾攻撃を 「騙し討ち」 と非難して米国民が激高していたこと、米国は強大な工業力で軍備増強を続けること、などを指摘すべきだった。

 また戦争に勝つためには 「勝って兜の緒を締めよ」 と説くのが言論機関の見識だろう。 朝日はそのような事実報道も、冷静な論調もなく、開戦の時から戦果を大げさに持ち上げるプロパガンダを続けたのである。




 真珠湾攻撃の成果とともに、米軍がどんなに狼狽うろたえたか、という記事を、南米経由でもたらされたニュースとして掲載している。
 同日桑港サンフランシスコ付近にあった米潜水艦は一輸送船を発見、わが艦艇の急襲と早合点し、たちまち魚雷を放って撃沈、沈められた米船の乗組員5、6十名は狐につままれた気持ちながら、かろうじてボートに乗り移り、陸地に向かって漕ぎ帰った。

 海岸の防御陣ではこのボートを発見、 “日本軍敵上陸部隊来襲” と青ざめ、有無を言わせず一斉射撃を浴びせ哀れにもボートは忽ち海の藻屑もくずと消えてしまった。 二度までも敵、味方の見わけもなくなった自国軍の手にかかって最後を遂げた米船員達の不運もさることながら、敵の狼狽ぶりは世界の笑い草である。
 米国の国土が史上初めて敵の攻撃を受けたのであるから、このような狼狽もあったのかも知れない。 それにしても 「敵の狼狽ぶりは世界の笑い草」 とまで書く悪乗りぶりはどうだろう。 初戦の勝利に沸く国民に米国軽視の風潮を植えつけるだけで、世界最強国との先端を開いたという緊張感のかけらも感じられない。




 翌春、昭和17( 1942 )年4月18日、太平洋上の米軍空母ホーネットから発進したドリットル爆撃隊16機が東京を空襲した。 初の本土空襲であり、川崎、名古屋、神戸なども爆撃され、全国で50人が死亡、約2百戸の建物が火災などで損壊した。

 翌日の朝日夕刊は 「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」 との見出しで、軍司令部の発表をそのまま報じた。 「9機撃墜」 も 「損害軽微」 も事実かどうか、その検証もされていない。 国内の被害なので、死者数や火災件数くらい、新聞社なら掴めるだろうが、 「軍部の報道統制に従ったまで」 と言い逃れるのだろうか。

 翌日には 「初空襲に一億たぎる闘魂」 の大見出しのもと、 「我家まもる女手 街々に健気な隣組群」 との見出しのもとに、 「焼夷弾を消しとめた婦人」 の証言を紹介している。
 奥の6畳の間に赤ちゃんを寝かせておいてお勝手の用をしていましたら、四畳半にバーンという音がしたので驚いて駆けつけると、大きな火の玉が部屋中転がっていました。

 とっさにこれが焼夷弾だなと思うとすぐに、屋外に駆け出してこもを水桶で浸し、 「焼夷弾だ」 と叫びながら燃える火の玉にとびかかるようにしてかぶせたら、すぐに消えちゃいました。 焼夷弾って、ほんとに怖くはないものですのね。

 無心に眠る背中の赤ちゃんを揺り上げて、また一散に町内の火災現場へ駆けだしていった。
 この他にも、屋根に墜ちた焼夷弾を手づかみで投げ捨てた話も掲載されている。 まるでアクション映画の1シーンである。

 朝日は戦後、南京戦で二人の日本軍少尉がどちらが先に100人の中国人を斬れるか、という 「殺人ゲーム」 をしたという記事を掲載して 「南京大虐殺」 報道を始めたが、それと同様に、まったくリアリティの感じられない記事である。

 たとえ事実だったとしても、焼夷弾に水で濡らした菰で覆い被さるというような危険な真似を国民にさせるつもりなのか。 本当に国民の安全を望む良識のある新聞記者なら、こんな報道は控えるだろう。


生肝いきぎもえぐ

 朝日は戦争スローガンの大キャンペーンも行った。 「撃ちてし止まむ」 は、昭和18( 1943 )年2月に陸軍が決戦標語として選定した 「古事記」 の一節で、 「敵を撃ち滅ぼそう」 と言う意味である。 朝日は紙面で計13回にわたり、 「撃ちてし止まむ」 のタイトル付きの記事を連載した。
 幾たりかの戦友が倒れていった。 “大元帥陛下万歳” を奉唱して笑いながら死んでいった ……。 今こそ受けよ、この恨み、この肉弾! この一塊、この一塊の手榴弾に、戦友のそして一億の恨みがこもっているのだ。 敵の生肝を、この口で、この爪で抉ってやるのだ!

 戦友のしかばねを踏み越えて、皇軍兵士は突撃する。 ユニオン・ジャックと星条旗を足下に蹂躙して、進む突撃路はロンドンへ、そしてワシントンへ続いているのだ ……
 朝日は、この記事に呼応して、 「撃ちてし止まむ」 のスローガンとともに、星条旗とユニオンジャックを踏みつけて突進する兵士の姿を描いた100畳敷きの巨大ポスターを東京と大阪に掲げた。

 ここまで来ると、もう完全なプロパガンダ機関である。 しかも、大東亜戦争の目的は開戦の詔勅で述べた 「自存自衛」 であり、ロンドンやワシントンを征服することではない。

 朝日は、これをも軍部の強制と言うのか。 時世に迎合して、国民を煽り、部数を伸ばそうという卑しい商売根性ではないのか。 いかに言論統制下とは言え、真の新聞記者なら、こんな扇動的な文章を書くよりも、黙って筆を折るだろう。




 その後、戦況は日に日に悪化し、硫黄島の守備隊が玉砕して、そこから飛び立った爆撃機が、日本本土を空襲するようになった。 その後に及ぶと、朝日は本土決戦を訴える。

 昭和20( 1945 )年3月8日朝刊では、東京への大規模空襲が始まっている中で 「本土決戦に成算あり 我に数倍の兵力、鉄量 敵上陸せば一挙に戦勢を転換せん」 との見出しで、本土決戦なら特攻や沿岸の巨砲、数百万の精鋭で敵を壊滅できるとし、 「銃後国民も第一線将士とともに文字通り銃をとって戦わねばならぬ」 と主張している。

 3ヶ月後の6月16日朝刊では、沖縄も奪われた段階で、 「本土決戦、一億の肩にかかる 我に大陸作戦の利」 との見出しのもと、鈴木貫太郎首相が記者会見で述べた、本土決戦で 「たとい武器においては劣るとしても、必勝の道はあると確信する」 という発言を引用している。

 この調子で、冒頭に紹介した降伏前日の 「一億火の玉」 記事まで、朝日は抗戦一本やりの紙面を続けるのである。




 しかし、鈴木貫太郎は8年間も侍従長として昭和天皇に仕えた人物であり、終戦を実現するという大御心のもとに首相に任命されたのあった。 無条件降伏という非常識な要求を掲げるルーズベルト政権と、中国大陸では120万人の勢力を温存する軍部強硬派の間で、いかに折り合いをつけて降伏に持ち込むか、鈴木首相の苦心はそこにあった。

 前節の必勝発言は軍部向けのカモフラージュであったが、同時に4月12日にルーズベルト大統領の逝去に弔意を示して世界を驚かせたり、6月8日の施政方針演説でも 「わが天皇陛下ほど世界の平和と人類の福祉とを冀求(ききゅう)遊ばさるる御方はない」 と発言している。

 鈴木が首相として登場した時に、ニューヨーク・タイムズは 「和平の打診を試みるのではないか」 という日本問題専門家たちの意見を紹介している。 アメリカのニューヨーク・タイムズに見て取れることで、国内の朝日が分からなかったはずはない。 しかし朝日は徹底抗戦のプロパガンダを続けた。

 冒頭の 「一億火の玉」 記事が掲載された8月14日時点で、当時の東京朝日編集局長、細川隆元の著書 『実録朝日新聞』 によると、朝日社内ではポツダム宣言受諾をめぐる政府内の動きを掴んでいたという。 朝日は紙面上では、そんな事はおくびにも出さずに、 「一億火の玉」 などと扇動を続けていたのである。

 朝日が真の報道機関ならば、空襲下で倒れ行く国民の事を思われる昭和天皇の大御心を体し、鈴木首相の真意を察して、戦意高揚ではなく、和平への機運作りをする道もあったろう。

 それもないままに、突然、8月15日の玉音放送を拝した軍も国民も粛々と降伏を受け入れたのは、皇室への信頼が厚かったからに他ならない。 国民はそれまでの朝日の扇動にも踊らされなかった。




 戦後の朝日がいかに共産主義国家に肩入れした報道を続けてきたか!

 そこに見られるのは、事実を国民に知らしめ、その上で自社の論説を国民に訴える、という報道機関の姿ではない。 事実を歪め、あるいは隠し、自社の思う方向に国民を誘導しようというプロパガンダ機関の姿である。 今回は、戦時中の朝日の報道を見たが、ここでも同じ姿勢が明らかに見てとれる。

 どういう方向に誘導しようとしているのか、その方向は別にしても、そのプロパガンダ体質は戦前、戦後を通じて変わらない。 国民を無知なる大衆と見下し、自分こそが日本の目指すべき道を知っている、という歪んだエリート意識がそうさせるのか?

 いや、と疑っている。 戦時中のソ連や中国共産党は日本を中国や米英と戦わせて、戦火の中で共産革命を起こし、ソ中日の 「赤い東亜共同体」 を作ることを戦略としていた。 その戦略に乗って動く少壮軍人や革新官僚もいた。 朝日の尾崎秀實記者も、ソ連スパイ・ゾルゲと結んで機密情報をソ連に流し、死刑になっている。

 朝日の中には、尾崎以外にも、戦火のもとでの共産革命を狙っていた輩がいたのではないか。 と考えると、本土決戦や終戦前日まで徹底抗戦を訴えた理由が分かるような気がする。 この仮説が正しいとすれば、戦前も戦後も朝日は方向も姿勢も一貫した売国プロパガンダ機関である、ということになる。





( 2015.04.09 )
よ!
 

 朝日新聞の7日付社説 「教科書はだれのものか」 を一読、 「よく言うよ」 とあきれた。 社説の書き出しはこうである。

 朝日は、来春から使用される中学校教科書の新検定基準で、近現代史に関して通説的見解がない事項の記述にはその旨を明記することや、政府見解を尊重する記述が求められるようになったことがお気に召さないらしい。

 これまで教科書は、現場の教員が主に務める 「調査員」 が実質的に採択の方向性を決めてきた。 そのため、教科書記述は声の大きな日教組教員らが好む左がかった内容となりがちだった。

 だが、朝日はそうした教科書採択の実態、問題点には目をつむり、決して 「教科書は、日教組の機関紙であってはならない」 とは書かなかったではないか。

 また、朝日は竹島( 島根県隠岐の島町 )や尖閣諸島( 沖縄県石垣市 )などの記述で、政府見解が反映されたのも納得できなかったようだ。 社説では、 「相手国の主張や根拠まで扱った本はほとんどない」 「これでは、なぜ争っているか生徒にはわからない」 などと批判している。

 とはいえ、相手国の主張を取り入れるとはどういうことか。 広島県教組と韓国の全国教職員労組大邱支部が共同執筆した日韓共通歴史教材( 平成25年3月刊行 )は、例えば慰安婦問題についてこう書いている。

 朝日は、こんな事実無根の話でも、相手国の主張ならば教科書に載せるべきだというのだろうか。 教科書は日本の将来を担う子供たちのものであり、日教組や韓国のものではない。

 朝日は相変わらずだなと思っていたら、同日の民主党の細野豪志政調会長の記者会見にさらにあきれ返った。 細野氏は自ら今回の教科書検定について切り出し、こう述べたのだ。

 どこかの新聞の社説で読んだようなセリフである。 細野氏は 「教科書記述の内容がかなり狭まったという印象を受ける」 とも指摘したが、記者側からの 「具体的にどの部分か」 という当たり前の質問には答えられず、こう繰り返した。


 だとすると細野氏は、一体何を根拠に 「政府広報」 だの 「記述の内容が狭まった」 というのだろう。 細野氏はその一方で、教科書に領土に関する記述が増えた点については、次のように逆に評価してみせた。

 それならば、新検定基準を何のためにことさら批判したのか。 まさか当日朝に読んだ新聞の論調に引きずられ、安倍政権批判の材料になると安易に飛びついたなどということはないだろうが。